本や ふるさとマルシェ
いわきの本、民俗など。店主じゃんがら堂です。
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Author:ふるさとマルシェ本や
 ふるさとマルシェ本やの店主じゃんがら堂です。
 じゃんがら堂は、いわきの古本屋です。店舗は無く、駅前のラトブ6Fに事務所を構えております。古本を扱う一方で、民俗学徒として、いわきのじゃんがらを中心に、聞き書きをしております。夜は、たいてい平の呑み屋にいます。
 ふるさとマルシェ本やでは、福島やいわきなどの地域に関する書籍や資料を主に扱っております。このブログでは、じゃんがら堂が、お薦めしたい本や日々思ったことなどを綴りたいと思います。



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内なるじゃんがらへ
ソニックさんより、じゃんがらCDのパンフをいただきました。宣伝させていただきます。じゃんがらパンフ1

じゃんがらは、新盆の庭だけでなく、さまざまなイベントで演じられることが少なくない。これは今に始まることではなく、いわきの“名物”として、じゃんがらが認知されてゆく中で当然の帰結であった。

昭和初期のじゃんがら競演が早いものだが、本格化するのは昭和20年代である。現在も行われ続けているじゃんがらコンクールは昭和25年。いわきの代表的な土産の銘菓じゃんがらも昭和26年に発売されている。このほか、土産物のじゃんがら人形もこの頃に作成されている。昭和30年代に入ると、青年会の批判を受け観光化の動きは一旦は収束するのだが、現在に至るまで、観光とじゃんがらは密接に結びついている。

こうした動きの中で、じゃんがらはいわき独自のもの、あるいは、いわきの文化を体現するものとしてPRされてきた。さらにいわきに古くから伝わるものとして“伝統”が喧伝される。じゃんがらを江戸初期の名僧祐天が始めたとする祐天上人説は、じゃんがらの“伝統”を証明するものとして、観光化の中で盛んに宣伝されてきた。すでに江戸期より祐天上人説は見られるが、じゃんがらコンクールやみよしのじゃんがらのパンフといった、昭和20年代の観光化の動きによって一般化したものと考えている。
じゃんがらパンフ2

じゃんがら」のプリミティブなリズムを聴きながら歴史を思う。ボクらは今とても遠いところまで来てしまったような気がする。誰もが時間の積み重ね無しに存在することはできない。「これがオレのオリジンだ」と胸を張って言えるようなものが欲しい、と思う。根無し草は漂う事しかできないからだ。このプリミティブなリズムは、ボクらの何処に眠っているのだろう?答えは、やはりリズムの中に、ある。(ドン・マツオ)

ズボンズのドン・マツオのレビューである。じゃんがらの「プリミティブ」をいたずらに原始へと回帰させる観光の言説とは一線を画している。ここで語られる「プリミティブ」とは私たちの身体に内在する「プリミティブ」である。じゃんがらのリズムに呼応してしまういわきの人々の身体。観光化の中で由緒は盛んに語られてきたけれども、いわきの人々が反応するじゃんがらは、由緒ではなく、やはりリズムなのだ。

パンフの裏(?)には東京スカパラダイスのASA-CHANGのパーカッションワークショップの宣伝が載っている。世界の様々なリズムを体験してきたASA-CHANGのワークショップは、そうした内なるリズムを発見してゆく一つのアプローチであろう。

外へ見せるじゃんがらから、私たちの内なるじゃんがらへ。

『イザベラ・バードの会津紀行』
イザベラバードの会津紀行
『日本奥地紀行』という本がある。明治の初め、イギリス人女性イザベラ・バードが東北・北海道を旅した際の紀行文である。1878年(明治11年)6月から9月にかけて、東京より日光、会津、新潟へ抜け、日本海側から北海道に至る旅であった。当時の地方農村の様子が活写され、貴重な記録となっている。

『イザベラ・バードの会津紀行』は、バードの会津の旅を追ったものである。日光を見物したバードは、これからの旅は「未踏の地」であり、「古い日本」を残した場所となると語り、栃木県との境、山王峠を越え田島へ入った。そして、大内宿、会津高田、会津坂下と北上、阿賀野川を遡り新潟県阿賀町へ抜けている。一週間ほどの会津の旅であった。

バードを一晩眠らせなかった呑めや歌えの川島のサナブリ。「外人が来た」と宿屋に殺到する高田の人々。蚤や虱の充満する宿屋。干魚の強烈な匂いの立ち込める会津坂下。その美味しさに驚いた津川の生鮭の切り身。

本書は福島県立博物館長赤坂憲雄による「イザベラ・バードの会津紀行」、同館学芸員の佐々木長生による「イザベラ・バードが見た会津の民俗」を収録。バードの旅を通して、会津の近代を浮かび上がらせる。衛生、交通、労働、女性、子供、教育、文明、国家…。近代化とは何だったか、バードの旅は、現代の私たちに問いかける。

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平盆踊りの変化−『常磐地区産業要覧』から
今日買い取りをした本の中に、『常磐地区産業要覧』があった。これは、平観光協会が1960年に編纂したいわきの概説書である。ざっと眺めていて、気になる表現があった。それは、「盆踊り」の説明である。

盆踊りは昭和10年ごろまで旧盆の軒先をまわる行事であり、旧盆の3日間、夕方から戸毎に薪を重ねて迎え火をたき、全市火の海と化して壮観をきわめたが、火災の危険と経済的な理由から迎火は次第に小規模になり、近年に至り、14、15、16の3日間夜は市内各所に大櫓を設け、仮装をこらした老若男女がキレイどころを交えて深更まで踊りぬき国鉄では臨時列車を運転する盛況にまでなった。

大須賀履の『歳時民俗記』でも、明治初期の盆踊りと迎え火の壮麗さについて触れられている。迎え火は、各商店が軒先に薪を重ねて火をたくもので、平が「火の海」に見えるほど凄まじいものであったという。しかし、昭和10年ころに「火災の危険と経済的な理由」から廃れていったとある。「経済的な理由」とあるのは、昭和恐慌のことであろう。ただし、迎え火が廃れる直接的な原因は、昭和8年の本町通りのアスファルト舗装工事にあったらしい。

 しかし、気になったのはその点ではなく一行目である。ここには、櫓踊り以前の盆踊りが旧盆の軒先をまわる行事であると記されている。明治あたりまで、いわきの盆踊りはじゃんがらであったことは、先の大須賀の『歳時民俗記』からも明確である。ただ、平の盆踊りが、じゃんがらから平盆踊りとなってゆく時期がはっきりしないのである。さらに言えば、櫓踊りが一般化する時期も明確ではない。
 この『産業要覧』の一文からすると、盆踊りは昭和10年ごろまでは「旧盆の軒先をまわる行事」であったという。ここでいう盆踊りは、じゃんがらとは別個である。というのは、「盆踊り」の項と別個に「じゃんがら念仏と盆踊」の項が立てられているからである。とすると、昭和10年ころまでは、平盆踊りで各新盆家を回っていたということになる。

 盆踊りの主催というと、町内会や商店会などを思い浮かべる。しかし、じゃんがらを見れば分かるように、かつての盆踊りは、踊り手たちと家との関係であった。と考えれば、平盆踊りの新盆回りとは、踊りこそ新しくなったが、盆踊りの形態は旧態のままであった。
 昭和初期は、昭和恐慌を町の力で乗り切ろうとする時期であり、その活動の一つとして盆踊りが注目された時期であった。『産業要覧』の市内各所に大櫓をあげたという記述からは、町を上げて盆踊りを盛り上げようとしたことが推測される。さらに国鉄の協力も、盆踊りの実行主体が、家から町へ変化していたことが窺われる。
 これまでは、じゃんがらから平盆踊り、そして、いわき踊りという踊りの変化が注目されてきた。しかし、平盆踊りの新盆回りを射程に入れるには、踊り自体の変化と同時に、実行主体の変化を見据えなければならない。


アルバイト
4月19日

4月末に弟の披露宴があるので、ご祝儀を作るためにアルバイトを入れました。

昨日は、小名浜の住宅展示場の看板持ち。「住宅見学会 こちらです→」という看板です。道路端に立てておくことはできないので、人間がひとりついていなければならないわけです。

昨日は春の嵐。荒れ狂う雨と風の中、飛んでいかないように、必死に看板にしがみ付いていました。長靴に合羽を二重に着込んでも、水が服まで染み込んで来ます。一箇所にじっとしていると、次第に体温が奪われていきます。足が震え始め、そのせいで今日は足が筋肉痛です。寒さによる筋肉痛は初めての経験かもしれません。

しかし、一番大変だったのは、風雨や寒さよりも、退屈でした。7時間の時間を、じっとしているわけで、本を読むわけにも、音楽を聴くわけにも行かないし、もちろん話し相手もいない。

生来、私は落ち着きのない性格で、何かしら動いていないと安心できない。こうした人間にとって、一所にじっとしている看板持ちバイトはかなりきついものでした。

私が一番好きなバイト。それは引越しです。共同作業による一体感、昼飯のくつろぎ、物を運び終えたときの達成感。一日の労をねぎらう呑み。

今日は、勿来のあるお宅の引越しのお手伝いでした。昨日の嵐は峠を越えて、引越し日和とは行かないものの、午後には晴れてきそうな模様。心を弾ませて引越しのお宅へ向かいました。

30年ほど経った病院で、居住に使った二階からベットや箪笥などの家具をトラックに載せて、一時保管する倉庫へ運びました。病院は昭和レトロないい建物でしたが、明日には解体されるそうです。

引越しは11時から15時までの予定だったのですが、なんと1時間で終わってしまいました。早く終わったのはいいことなんでしょうが、私としてはもっと引っ越しの醍醐味を味わいたかった…。悶々としながら、明日からのバイトの鋭気を養うため北茨城市の天心の湯で汗を流しました。

戸渡へ行きました
4月17日分校にて

いわき市と川内村との境に戸渡(とわだ)という村がある。戸数は10戸。ゴミ収集などの行政サービスがストップされるどころか、集落自体が隣村と吸収合併されることさえ懸念される限界集落である。10年ほど前に、村の分校が休校・廃校になったのを機に、住民がとわだリターンプロジェクトを結成。分校舎を守る活動を通じて、村に移住者を呼び込む運動を続けている。私は3年ほど前から、戸渡の民俗・歴史の調査に携わっている。

昨年度までに分校舎の修理が済んだことで、リターンプロジェクトの活動は第二期を向かえる。今年度からは役員・委員が変わり、活動内容も誤解を恐れずに言えば「分校舎を守る」から「分校舎で稼ぐ」に転換する。もちろん第一期にも、村にお金を落させることが等閑視されていたわけではない。しかし、行政の補助金が活動の主な財源となっていたために、おおっぴらな経済活動に歯止めがかけられたことは事実だろう。

新たなメンバーの顔合わせと、分校の蔵書整理のために戸渡分校へ向かった。春を迎えた平地とは違い、まだ空気がひんやりとしていた。夕方にはストーブをつけるほどだ。これまでのリターンプロジェクトは、村の50、60代が中心だったが、今回集まった面々は30代が中心。彼らは自らのやっていることに真っ直ぐだ。ティピ作り、靴作り、ジプシースウィングジャズギター…。

明治初期、福島県で初の近代牧場が戸渡に設けられた。岩手県や福島県内の牛が集められ、県内各地に牛乳が運ばれた。大正期には、戸渡産のシイタケが横浜港からアメリカへ輸出された。昭和初期から昭和30年代まで、営林署の官戸事業として戸渡に60戸が移住、木材伐採にあたった。

国家、行政、人、動物、自然、金…。かつて戸渡に注がれた雑多なパワーを戸渡にどのようにリターンさせるか。

守りから攻めへ。新生とわだリターンプロジェクトが始動する。



忘却の歌−近現代のいわきの歌たち−
今昔福島の歌四倉町の友人から、「平小唄」と「平城」の音源をいただいた。ともに平の花柳界で歌われ、踊られた曲である。音源とともに送っていただいた新聞記事によれば、昭和56年に地元を代表する曲になればと「平小唄」と「平城」のレコードを作ったという。A面が「平城」、B面が「平小唄」のEPであった。「平城」は、作詞作曲不明。原田直之が歌っている。「平小唄」は、戦前と戦後のものがあり、戦後のものは昭和24年頃、作曲古関裕而、作詞野村俊夫という黄金コンビで作られた。

大正期の新民謡運動から、現在に至るまで、数多くのご当地ソングが作られてきた。しかし、歌は世に連れ添うものであり、消えていったものが多い。平小唄と平城のようにレコード化されたものは稀で、今では、歌詞しか分からないものが多い。いや、その存在さえ、分からなくなったものの方が多いだろう。さらに、付随した踊りとなると、皆目分からない。

数年前に、昭和初期に作られた鹿島村歌を老人たちに歌い、踊っていただいたことがあった。「鹿島
村歌」は、昭和初期の恐慌を村民一丸となって乗り切るために、鹿島村長が作ったもので、鹿島村の小学生が皆で踊ったという。

その土地の民謡というと、近代以前のものを想起するかもしれない。しかし、一方で、近代以降に土地の歌として作られた歌は少なくない。そして、その所在や実際がほとんど不分明であるのは、近現代の歌である。

「今昔福島の歌 万葉集から現代の歌まで」は、古代から現代までの福島の歌を集めた本である。ここから、近現代にいわきで作られた歌名を幾つか抜き出してみよう。

いわき市合併を記念した「いわき和おどり」、平の「新平小唄」、内郷町の「内郷甚句」、勿来の名所を歌い込んだ「勿来小唄」「勿来の関音頭」、三和町差塩の「差塩小唄」、磐城市が作った「磐城行進曲」、小名浜の「小名浜小唄」「港小名浜音頭」、いわき七浜を歌った「七浜大漁節」……。
これ以外にも、「四倉音頭」、「湯本小唄」、常磐交通で作った「常磐交通の歌」、内郷ヘルスセンターの「ヘルス音頭」などがある。

数年前にいわき警察署が作ったメッピー音頭も、警察署に問い合わせると音源はないという。ここ100年の歌たちは、急速に私たちの記憶から消え去りつつある。

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田町に芸妓がいたころ
新田町通り芸者遊びといっても、私の年代には時代劇の中のイメージしかない。昨夜、呑みに行ったのは、もと芸妓満栄さんのお店。彼女は、昭和28年に初めて谷口楼の舞台にたち、その後、昭和52年まで芸妓をつとめている。

彼女が芸妓を始めた昭和30年ころは、浜景気にわく漁業関係者と炭坑関係の客で賑わったという。昭和35年、東京からヤマを買い上げる業者がくる。1週間泊り込みの彼らに、昼の給仕、夜のお座敷をつとめた。昼と夜、毎日の勤めだったから、14枚の着物と帯が必要で大変だったという。その頃から、炭坑関係者がお座敷にくることが減った。
代わりに芸妓を呼ぶようになったのは土建業の人たちであった。ときは昭和39年の東京オリンピックに向けた建設ラッシュ。土建業が急成長した時期であった。昭和40年頃からは、原発関係のお座敷に呼ばれることも増えてゆく。富岡町のお座敷に一日がかりで通ったという。昭和47年のオイルショックなど高度成長が終焉を迎えると、花柳界にもかげりが見え始める。そして、満栄さんも芸妓をやめて、バーを始めた。

昭和30年から昭和50年にかけての、いわゆる高度経済成長期が田町の最盛期であり、また芸妓の多忙な時期であったのだろう。最盛期の田町には200人を超える芸妓がいたという。特に新田町通りは、置屋が並び、多くの芸妓が活動していた。芸妓たちは、夏場の暑さをしのぐため、さらしを上半身にまとっただけで化粧をしていた。そんな芸妓の姿が格子窓ごしに見え、白粉の匂いが立ち込める。そんな艶かしい新田町通りであったから、かつては磐高生通行禁止の”校則”もあったという。

現在の田町には、賑やかであった頃の花柳界の痕跡は何一つ残っていない。満栄さんの昔話を聞いて、そんな艶かしさと情緒が溢れた田町が想像されるだけだ。

カオスその2 カオスと古本屋
五十嵐七重の語り『奥会津の伝承 五十嵐七重の語り』にも、カオスが出ていた。この本は、奥会津の金山町に生まれ育った五十嵐七重の語った昔話を語りのまま採録したもの。

この中に「狐と獺(カオス)」という話があった。魚釣りのうまいカオスは、毎朝余った魚を狐に食べさせていた。あるとき、狐が毎日馳走になるのは悪いからと、カオスを自宅に招待するが、狐はあれこれと言い訳をして、カオスは馳走を食べられない。ある朝、狐は、カオスに魚釣りのやり方を教わり、川端に出かけてゆく。尻尾をたらすと魚が食いついてくるのだが、欲の深い狐は、多量の魚が食いつくまで尻尾を上げない。冬の寒い晩であったために、狐の尻尾が凍りつき狐は動けなくなってしまう。そして、翌朝、狐は猟師に撃たれてしまう。

生真面目なカオスと欲深い狐が対照的に描かれている。語りではカオスは「稼ぇぎ者」と語られている。この話は「尻尾の釣り」に分類される昔話で、一般的には猿と狐が登場することが多いようだ。七重の語りもそうだが、狐やカオスは尻尾を川に垂らして魚を釣る。そして、オチの都合上、季節は冬場となっている。

七十二候の一つに獺祭がある。季節は初春であり、カオスが春先に捕らえた魚を川岸に並べる行為に由来することばである。カオスの祭りと表記されるのは、人間が祭りのときに供物を並べる様子に見立てたためである。さらに、獺祭は、モノを書くときに多くの資料や書物を並べ散らかすという意味にも転じている。正岡子規は自家を獺祭書屋と称している。
 
書物を並べ散らかした様は、まさにカオスなのである。カオスが生真面目に、一つ一つ釣り上げた獲物は、やがては乱雑なカオスの貌を見せはじめる。しかし、そのカオスには、カオスたちの個性が垣間見られることだろう。

そう、それが古書店の棚。古書店の乱雑さは、古書店主がカオスゆえのカオスなのであった。

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カオス
4月8日

夜は、いわき地域学会の役員会で、平菅波の大国魂神社へ。今年度の計画を話し合い、その後、呑み会に。

夏井地区の人たちが、魚とりの名人のことをカオスということを聞いた。カオスといえば混沌。混沌の中から、何かを掴み出してくる。そんな意味だろうか。でも、当然ながら、カオスは外来語。

翌日、『石城北神谷誌』を開くと、「熊野様の祟り」という話の中に次のような記述があった。

「…魚とりの上手な、村人からカホス(獺)殿と渾名された松蔵…」

カオスは、魚取りのうまい人をカワウソに比喩したあだ名だったのだろう。

それでも、混沌の中から、何かを取り出してくるというイメージも捨てがたい。願わくば、雑多な書物というカオスから、価値あるものを掴み出してくるカオスにならんことを。

ラトブでダンス
ラトブでダンス
4月6日
ラトブ6階展示ホール「Rock’n Dance Show LATOVでダンス&ライブ 」のお手伝い。主催はS・Sプランニング。4つのバンドが60年代、70年代のダンスミュージックを奏で、観客がステージ前のダンスフロアでそれに合わせて踊るという企画。お酒もあり、大いに盛り上がりました。200人は入っていたようです。

私は、舞台やダンスフロアを作るなどの会場作り、そして、ライブ後の撤収のお手伝いをしました。久しぶりに体を動かしたせいか、全てが終わった9時にはくたくたでした。夜桜

老若男女楽しんでいたようで、いい企画でした。60、70年代のリズムは、20世紀ポップスの基礎であって、誰もが踊り、盛り上がることが出来るんだなあと思いました。また、ライブハウスを中心に活動している人たちのパワーが、ラトブに新しい風を起こせればと思ったりしました。

終わってから、友人と夜の森の桜を見に行きました。まだ、8分咲きといったところ。途中のコンビニでお酒を買って、花見をしましたが、やはり深夜は寒く、早々帰ってきました。

伯楽寮セミファイナル
4月5日
4月中旬につくばのアパートの電気や水道がストップしてしまう。とうとう伯楽寮の解体も秒読みに入った。アパートの連中から、セミファイナルの呑みをやりたいとの電話が当日の朝に来た。その晩は、いわきの呑みが入っていたけれど、知人に運転手を頼み、高速を飛ばしてつくばへ向かう。セミファイナル1

伯楽寮に着くと、既に日は暮れかかっていた。住民たちは、買出しに行ったり、料理を作ったり、前に
宣伝した写真展の準備をしたりで、呑みの準備に忙しい。部屋で呑もうと思ったけれど、やっぱり伯楽の呑みは野外だろうということで、照明を設置して、炭を起こし、野外に呑み会場を作る。

伯楽寮の住民や前に住んでいた人々、その知人友人。30名ほどが集まった。新聞記者、放浪者、農業浪人、詩の朗読者、声優、写真家などなど。そして、私古本屋。もちろん、それで食っているものは少なく、それぞれの肩書きにプレが付く。

いつものように、酒を煽り、ああでもない、こうでもない、そうではない、どうでもいい。誰かがギターを弾きはじめ、パンデーロがけたたましいリズムでそれに応え、ボンゴが重く響きだす。誰かが歌い、誰かが踊り、誰かが叫び出す。
セミファイナル2


たぶん朝まで騒いでいたのだろうけれど、私は明日が早いので、高速を飛ばしていわきに戻りました。

呑み会のたび、休肝日を作れと住民に言われ続けております。ファイナル呑みのサプライズは、私が酒を呑まないこと。

まあ、実現はしないだろうけれど。