本や ふるさとマルシェ
いわきの本、民俗など。店主じゃんがら堂です。
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Author:ふるさとマルシェ本や
 ふるさとマルシェ本やの店主じゃんがら堂です。
 じゃんがら堂は、いわきの古本屋です。店舗は無く、駅前のラトブ6Fに事務所を構えております。古本を扱う一方で、民俗学徒として、いわきのじゃんがらを中心に、聞き書きをしております。夜は、たいてい平の呑み屋にいます。
 ふるさとマルシェ本やでは、福島やいわきなどの地域に関する書籍や資料を主に扱っております。このブログでは、じゃんがら堂が、お薦めしたい本や日々思ったことなどを綴りたいと思います。



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屋上の記憶
八重洲のビル7月8日

先日、平のビアガーデンで呑んだ。5階建てのビルだけど、屋上の周りには高いフェンスがあるので街自体を見下ろせるわけではない。遠くの赤井岳や湯の岳が望めるくらいで、あとは空が見えるだけだ。屋上は展望台ではないから、それは当然のことではある。しかし、地上のむし暑さを離れて、涼風に生ビールを呑むのは、やはりなんともいえない心地である。

いわき駅ビル35年史の取材で、駅ビルの屋上のビアガーデンと、そこで演奏したバンドを探している。昭和48年にオープンした平ステーションビル「ヤン・ヤン」は、昨年クローズし、現在解体中である。3階建てで屋上に銀座ライオンがビアガーデンを開き、また、夏にはさまざまな催事が行われていた。ある時期から、屋上は閉鎖されてしまうのだが、他のデパートの屋上と同様に、市民に利用されていた。

ネーミングからも推測されるように、ヤンヤンは若者文化の発信というテーマを持って、屋上ではバンド大会、フォーク大会などの音楽イベントが行われた。それらは、オープン5年ほどで終わってしまうのだが、屋上ビアガーデンと共にヤンヤン当事者に強い印象を残している。セールと抽選会以外に大きなイベントを持たなかったヤンヤンの35年の歴史の中で、輝かしい記憶なのであろう。

そのため、この屋上の記憶を何とか記録したかったのだが、つてを辿っても、ビールは呑んだけれど…という話ばかりだった。確かに、ビアガーデンの記憶なんて、楽しく呑んだという意外には残らないのかもしれない。

祭りやイベントごとなどの非日常的なコトだって、苦労話や失敗談の方が記憶に残りやすい。呑み会では“武勇伝”の方が残りやすいのだ。どんな風に呑んで、どんな音楽が流れていたのかなんて、楽しく呑んだ記憶は残りにくい。だからこそ、ビアガーデンはディティールを昇華した思い出としていつまでも残るのかもしれない。


田町に芸妓がいたころ
新田町通り芸者遊びといっても、私の年代には時代劇の中のイメージしかない。昨夜、呑みに行ったのは、もと芸妓満栄さんのお店。彼女は、昭和28年に初めて谷口楼の舞台にたち、その後、昭和52年まで芸妓をつとめている。

彼女が芸妓を始めた昭和30年ころは、浜景気にわく漁業関係者と炭坑関係の客で賑わったという。昭和35年、東京からヤマを買い上げる業者がくる。1週間泊り込みの彼らに、昼の給仕、夜のお座敷をつとめた。昼と夜、毎日の勤めだったから、14枚の着物と帯が必要で大変だったという。その頃から、炭坑関係者がお座敷にくることが減った。
代わりに芸妓を呼ぶようになったのは土建業の人たちであった。ときは昭和39年の東京オリンピックに向けた建設ラッシュ。土建業が急成長した時期であった。昭和40年頃からは、原発関係のお座敷に呼ばれることも増えてゆく。富岡町のお座敷に一日がかりで通ったという。昭和47年のオイルショックなど高度成長が終焉を迎えると、花柳界にもかげりが見え始める。そして、満栄さんも芸妓をやめて、バーを始めた。

昭和30年から昭和50年にかけての、いわゆる高度経済成長期が田町の最盛期であり、また芸妓の多忙な時期であったのだろう。最盛期の田町には200人を超える芸妓がいたという。特に新田町通りは、置屋が並び、多くの芸妓が活動していた。芸妓たちは、夏場の暑さをしのぐため、さらしを上半身にまとっただけで化粧をしていた。そんな芸妓の姿が格子窓ごしに見え、白粉の匂いが立ち込める。そんな艶かしい新田町通りであったから、かつては磐高生通行禁止の”校則”もあったという。

現在の田町には、賑やかであった頃の花柳界の痕跡は何一つ残っていない。満栄さんの昔話を聞いて、そんな艶かしさと情緒が溢れた田町が想像されるだけだ。

カオス
4月8日

夜は、いわき地域学会の役員会で、平菅波の大国魂神社へ。今年度の計画を話し合い、その後、呑み会に。

夏井地区の人たちが、魚とりの名人のことをカオスということを聞いた。カオスといえば混沌。混沌の中から、何かを掴み出してくる。そんな意味だろうか。でも、当然ながら、カオスは外来語。

翌日、『石城北神谷誌』を開くと、「熊野様の祟り」という話の中に次のような記述があった。

「…魚とりの上手な、村人からカホス(獺)殿と渾名された松蔵…」

カオスは、魚取りのうまい人をカワウソに比喩したあだ名だったのだろう。

それでも、混沌の中から、何かを取り出してくるというイメージも捨てがたい。願わくば、雑多な書物というカオスから、価値あるものを掴み出してくるカオスにならんことを。

伯楽寮セミファイナル
4月5日
4月中旬につくばのアパートの電気や水道がストップしてしまう。とうとう伯楽寮の解体も秒読みに入った。アパートの連中から、セミファイナルの呑みをやりたいとの電話が当日の朝に来た。その晩は、いわきの呑みが入っていたけれど、知人に運転手を頼み、高速を飛ばしてつくばへ向かう。セミファイナル1

伯楽寮に着くと、既に日は暮れかかっていた。住民たちは、買出しに行ったり、料理を作ったり、前に
宣伝した写真展の準備をしたりで、呑みの準備に忙しい。部屋で呑もうと思ったけれど、やっぱり伯楽の呑みは野外だろうということで、照明を設置して、炭を起こし、野外に呑み会場を作る。

伯楽寮の住民や前に住んでいた人々、その知人友人。30名ほどが集まった。新聞記者、放浪者、農業浪人、詩の朗読者、声優、写真家などなど。そして、私古本屋。もちろん、それで食っているものは少なく、それぞれの肩書きにプレが付く。

いつものように、酒を煽り、ああでもない、こうでもない、そうではない、どうでもいい。誰かがギターを弾きはじめ、パンデーロがけたたましいリズムでそれに応え、ボンゴが重く響きだす。誰かが歌い、誰かが踊り、誰かが叫び出す。
セミファイナル2


たぶん朝まで騒いでいたのだろうけれど、私は明日が早いので、高速を飛ばしていわきに戻りました。

呑み会のたび、休肝日を作れと住民に言われ続けております。ファイナル呑みのサプライズは、私が酒を呑まないこと。

まあ、実現はしないだろうけれど。

日常と非日常−伯楽寮の解体
3月20日 雨と風の強い日
案内状1
私が大学に入って住み続けた伯楽寮が4月に取り壊されることになりました。4畳半、7500円のおんぼろアパート。畑は作り放題、夜は呑み放題というアナーキーなアパートでした。

筑波大学創設時から30年間、さまざまな人が住み、暮らし、耕し、呑み、語り合った場であり、私にとって、もっとも大事な場所の1つでした。

解体を前に、住民の写真家志望のTが伯楽写真展を行います。案内状をアップしときます。

彼のページです。→ http://d.hatena.ne.jp/Evocacion/
彼の案内状から。

高橋良輔伯楽寮写真展
2008.3.26〜4.12

「ああ、あのアナーキーなアパートね」(HEATWAVE 山口洋)

 家賃は4畳半7000円、六畳10000円。風呂はボイラー、トイレは汲み取り。1.6haの広大な敷地に畑と林、果樹が点在し、住民が夜な夜な酒と音楽を奏でる不思議なアパート、伯楽寮。
 筑波大学の開学とほぼ同時に開寮、共に30年の時を歩んできたが、今年4月をもって取り壊されることとなってしまった。
 最後の一年、19歳から40歳までの男女10人の住人、そして動物たちの濃密で奇想天外な生活と、寮を取り巻く自然の移ろいを写真で記録、集成。


 私は97年冬に、このアパートを見つけ、一度、退去しましたが、3年前からまた部屋を借りていました。ほぼ20代の10年間を伯楽寮で過ごしたことになります。

20日は、自分の部屋の引越し作業。雨の中、粗大ごみをクリーンセンターへ持ち込みました。酒棚とちゃぶ台だけとなった4畳半がこれほど広いものとは思いませんでした。

夜は、例の如く、住民が集まって、どんちゃん。坦々鍋を作りました。日常茶飯事(日常飲酒事?)であった伯楽呑みも、あと数回です。