本や ふるさとマルシェ
いわきの本、民俗など。店主じゃんがら堂です。
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Author:ふるさとマルシェ本や
 ふるさとマルシェ本やの店主じゃんがら堂です。
 じゃんがら堂は、いわきの古本屋です。店舗は無く、駅前のラトブ6Fに事務所を構えております。古本を扱う一方で、民俗学徒として、いわきのじゃんがらを中心に、聞き書きをしております。夜は、たいてい平の呑み屋にいます。
 ふるさとマルシェ本やでは、福島やいわきなどの地域に関する書籍や資料を主に扱っております。このブログでは、じゃんがら堂が、お薦めしたい本や日々思ったことなどを綴りたいと思います。



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見る前に跳べ
ヤマ7月5日、6日

いわきの奥地、小川町上小川戸渡の旧戸渡分校。土日に学校を開放しているので、誰かが留守番に行かなければならない。土曜日は友人ら4人で、日曜日は友人と知人の家族たちが来て、一日留守番と学校の整備を行った。校庭の草むしり、倉庫整理、図書整理など、やることは多い。

過疎化の進む僻村の廃校。確かに、何の特色もない、ありふれたものといえばそうなのである。逆に、都市部の廃校のほうがよほど珍しい。

この廃校利用のプロジェクトは、地域活性化という大きな目標があるわけ(だろう)だが、そんなことばと日々の学校の整備との間には相当な距離があることは容易に推測できるし、実感でもある。といっても、学校を維持するにはやらなければならないことだし、しょうがないことである。

学校の整備の作業中に、この学校を始めて訪れた女の子が、こんな疑問を口にした。「ここで何をやれるの?」確かに、何がやれるのだろう。学校に立ち寄った人は、校舎を一回りして、お茶を呑んで…。それから?

作業を中断して、自分たちが、今ここでやれることをやってみることにした。

外の体育倉庫には、跳び箱、体操のマット、グローブ、腐ったラグビーボール、バドミントンのラケットなどが、無造作に押し込められていた。それらを整理しつつ、空気の抜けた一輪車に空気を入れてみる。女の子は、小学校の頃に一輪車に乗っていたといい、一輪車で校庭を回りはじめた。ちゃんと乗れる。

誰かが、何かをやれるように学校を整備する。そうではなくて、今ここで自分ができること。それを一つ一つ試していくことが、学校の可能性を広げることなのだと思った。

翌日の日曜日は、校庭にテニスネットをはって、テニスをやってみた。バレーのネットはからまっていて使えなかった。教室に卓球台をひっぱりだし、卓球をやってみた。竹馬に乗ってみた。アコーディオンを弾いた。木琴を叩いた。ギターをかき鳴らした。パスタを作ってみた。

数年間、この学校にかかわりながら、訪れた人がこの場所で何ができるのか。それを考えていなかったように思う。明日に残るのが筋肉痛だけじゃないように。


大正元年のスケッチ帳
画帳
先日、平の農村部へ古書の買い取りに行った。そのお宅で、二冊のスケッチブックを見せていただいた。大正初期のもので、当時20歳で教員をしていたこの家の先祖が日々の生活風景を描いたものであった。

田植えや草刈の様子、茅葺屋根が広がる平の農村風景、家々が軒を並べる宿場町。急な大波が防波堤や家々を飲み込んだ四倉の浜。四倉の横川に設けられた四手網の様子。薪をヤセウマに載せて運ぶ農婦。天秤棒に魚を入れ売り歩く魚売り。雨の中、カッパを着てリアカーに牛乳を乗せて運ぶ牛乳売り。腕相撲をして遊ぶ子供、柔道や野球をする学生。

簡単な鉛筆のスケッチから、水彩で淡く色をつけているもの、簡単な解説を付けたもの。ささやかなスケッチだが、当時の日常の様子が浮かび上がってくる。

大正期には、すでに写真は普及していた。結婚、葬式の際に撮影された親族が並ぶ写真、祭りの際の村人の集合写真、出征を記念した集合写真。写真撮影とは、何かを記念した公的な行事の一環であり、家族や個人のスナップ写真が一般的となるのは戦後のことだろう。そうした意味で、このスケッチ帳は、当時の一個人が見て、感じた日常を切り取ったものとして興味深い。

気になるスケッチがある。「四倉ノ病人」と題されたスケッチで、おそらく結核か何かで四倉の療養地あるいは隔離病棟に向かう人の様子を描いたものだ。病人である若い女性が馬に揺られてゆく。女性は黒いこうもり傘を指している。馬の口を取るのも若い女性だ。それを遠くで、農作業を一服している農婦たちが眺めている。スケッチの作者は、病弱で、20代で亡くなってしまう。やはり、結核か何かだったろう。馬に乗られ行く病人に自己を仮託するのでもなく、かといって、農婦の一員に連なるのでもなく、作者は淡々と、日常の一コマを描く。四倉の病人

写生ということばがある。対象をありのままに写し取るスタンスのことだ。もちろん、事物を客観的に描くことは出来ない。その個人の眼差しに拠った対象が描かれるだけだ。しかし、対象にこだわり続け、“ありのまま”に近づける努力。それを観察という。

牛乳屋の腰にぶら下げられた鈴。民家の軒先に並べられた農具。門前の郵便受け。ディティールそのものが、当時の雰囲気を伝えるのではない。作者のディティールへのこだわり、すなわち観察眼こそが、ささやかなスケッチに時代相を帯びさせるのだ。

デジタルカメラの普及によって、私たちは簡単に日常を撮影することができる。スケッチのように数十分、対象と向き合わずとも、瞬時に対象を、“ありのまま”に残すことができる。しかし、アプリオリに設えられた“ありのまま”は、大正元年のスケッチ帳のように、百年後の人々に何かを感じさせることができるのだろうか。

(『福島民友』6月21日)

限界集落戸渡から
 いわき市の中心部である平から阿武隈の山々を縫うように車を走らせる。1時間ほどすると、小さな分校舎が横に見えてくる。いわき市小川町上小川戸渡(とわだ)。いわき市と川内村の境に位置する山村である。戸数は10戸。標高約500メートル。周囲は見渡す限り山である。ゴミ収集などの行政サービスがストップされるどころか、集落自体が隣村と吸収合併されることさえ懸念される限界集落である。平成14年に分校が廃校となったのを機に、住民がとわだリターンプロジェクトを結成した。分校舎を守る活動を通じて、村に移住者を呼び込む運動を続けている。分校敷地内でのキャンプや戸渡の山林などの自然観察会、山の音楽会などさまざまな取り組みがなされてきた。そんな活動の一つである戸渡の民俗・歴史調査に携わるようになったのは3年前からである。

 戸渡は、近世初期に新田開発によって開かれた。近世中期には10戸ほどがあったが、飢饉などにより、明治初期には4戸ほどの村となっていた。当時、いわきの漢学者大須賀筠軒(いんけん)は、山の頂から戸渡を見下ろし、次のような感想を記した。「戸渡ハ一葉ノ偏舟 殆ント波底ニ沈没スルヲ恐ル」。阿武隈の山々という大海の中で、戸渡はあまりにも小さな集落であった。明治期にあって、すでに集落の行く末が危ぶまれていたのである。しかし、戸渡という小舟は近代の大波に「沈没」せず、現代に至る。そこには、戸渡の牧歌的な山村風景からは想像できない激動の歴史があった。

 明治9年、福島県で初の近代牧場である牧牛共立社が戸渡に設けられる。明治の殖産興業の国是に沿って、県の補助を受けた事業であった。岩手県や福島県内の牛が集められ、県内各地に牛乳が運ばれ、粉ミルクやチーズも作られた。大正期には、戸渡産のシイタケが横浜港からアメリカへ輸出された。昭和初期から昭和30年代まで、営林署の官戸事業として戸渡に60戸が移住、木材伐採にあたった。戸渡の人口が最も多く賑わった時期である。官戸事業が終わると、一挙に人口が減り、その後は過疎化の道を辿り現在に至る。

 昨年度までに分校舎の修理が済んだことで、リターンプロジェクトの活動は第二期を迎える。活動内容も誤解を恐れずに言えば「分校舎を守る」から「分校舎で稼ぐ」に転換する。もちろん第一期にも、村にお金を落させることが等閑視されていたわけではない。しかし、行政の補助金が活動の主な財源となっていたために、おおっぴらな経済活動に歯止めがかけられたことは事実だろう。

 国家、行政、人、動物、自然、金…。かつて戸渡に注がれた雑多なパワーを戸渡にどのようにリターンさせるのか。戸渡という小さな小舟は、限界集落の建て直しという希望を載せて現代の大海へと漕ぎ出してゆく。

(『福島民友』5月17日)
戸渡へ行きました
4月17日分校にて

いわき市と川内村との境に戸渡(とわだ)という村がある。戸数は10戸。ゴミ収集などの行政サービスがストップされるどころか、集落自体が隣村と吸収合併されることさえ懸念される限界集落である。10年ほど前に、村の分校が休校・廃校になったのを機に、住民がとわだリターンプロジェクトを結成。分校舎を守る活動を通じて、村に移住者を呼び込む運動を続けている。私は3年ほど前から、戸渡の民俗・歴史の調査に携わっている。

昨年度までに分校舎の修理が済んだことで、リターンプロジェクトの活動は第二期を向かえる。今年度からは役員・委員が変わり、活動内容も誤解を恐れずに言えば「分校舎を守る」から「分校舎で稼ぐ」に転換する。もちろん第一期にも、村にお金を落させることが等閑視されていたわけではない。しかし、行政の補助金が活動の主な財源となっていたために、おおっぴらな経済活動に歯止めがかけられたことは事実だろう。

新たなメンバーの顔合わせと、分校の蔵書整理のために戸渡分校へ向かった。春を迎えた平地とは違い、まだ空気がひんやりとしていた。夕方にはストーブをつけるほどだ。これまでのリターンプロジェクトは、村の50、60代が中心だったが、今回集まった面々は30代が中心。彼らは自らのやっていることに真っ直ぐだ。ティピ作り、靴作り、ジプシースウィングジャズギター…。

明治初期、福島県で初の近代牧場が戸渡に設けられた。岩手県や福島県内の牛が集められ、県内各地に牛乳が運ばれた。大正期には、戸渡産のシイタケが横浜港からアメリカへ輸出された。昭和初期から昭和30年代まで、営林署の官戸事業として戸渡に60戸が移住、木材伐採にあたった。

国家、行政、人、動物、自然、金…。かつて戸渡に注がれた雑多なパワーを戸渡にどのようにリターンさせるか。

守りから攻めへ。新生とわだリターンプロジェクトが始動する。



沢尻の大サワラ
サワラ1 いわき市と小野町との境、川前町沢尻にある大サワラを見に行った。沢尻の集落を見下ろす場所に大サワラが立っている。樹高は30メートルを超え、幹回りは9メートルに及ぶ。

 サワラの前の鳥居をくぐると、根元に小祠が3つ祀られていた。祠の中の札には産土神社とある。木自体が、集落の鎮守となるのは珍しい。傍らには、オフクラがいくつかあった。

 樹齢は800年とも1000年ともいわれているらしい。この大サワラの生命力自体、驚くべきことである。数百年の樹齢を重ねた樹木を身近で見ることは中々ない。

 このサワラが植樹されたものか、自生したものかは分からない。けれど、数百年間、沢尻の人々が守り続けたものであることは確かだろう。実は、沢尻では、サワラではなく、外見のよく似たヒノキとされていた。サワラ2

近くで、道路工事なのか、重機が置いてあった。周りの田んぼは圃場整備がなされている。大サワラは、1974年に国の天然記念物に指定され、説明版も整備された。ヒノキではなく、サワラとなった。

しかし、大サワラの樹冠が作る鬱蒼とした神域だけは、数百年間変わっていないのだろうと思う。


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