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| 『いわきビットVOL8』刊行 |
 いわき未来づくりセンター発行『いわき人VOL8』が出ました。総80ページに及ぶいわきの人々のルポ集。今号は、いわきの観光というテーマで、いわきの中の隠れた魅力を特集しています。
私は、「じゃんがらの北限・南限」という題で、じゃんがらの北限である大熊町長者原、南限の北茨城市に伝わるじゃんがらを取り上げました。北限・南限のじゃんがらを通して、じゃんがらの古形を復元してみました。今のじゃんがらとは異なったじゃんがらが提示されているはずです。
興味を持った方は、市内の本屋さんかコンビニへ。380円也。
(近いうちに、ふるさとマルシェでも扱えるようにします。)
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| 『イザベラ・バードの会津紀行』 |
 『日本奥地紀行』という本がある。明治の初め、イギリス人女性イザベラ・バードが東北・北海道を旅した際の紀行文である。1878年(明治11年)6月から9月にかけて、東京より日光、会津、新潟へ抜け、日本海側から北海道に至る旅であった。当時の地方農村の様子が活写され、貴重な記録となっている。
『イザベラ・バードの会津紀行』は、バードの会津の旅を追ったものである。日光を見物したバードは、これからの旅は「未踏の地」であり、「古い日本」を残した場所となると語り、栃木県との境、山王峠を越え田島へ入った。そして、大内宿、会津高田、会津坂下と北上、阿賀野川を遡り新潟県阿賀町へ抜けている。一週間ほどの会津の旅であった。
バードを一晩眠らせなかった呑めや歌えの川島のサナブリ。「外人が来た」と宿屋に殺到する高田の人々。蚤や虱の充満する宿屋。干魚の強烈な匂いの立ち込める会津坂下。その美味しさに驚いた津川の生鮭の切り身。
本書は福島県立博物館長赤坂憲雄による「イザベラ・バードの会津紀行」、同館学芸員の佐々木長生による「イザベラ・バードが見た会津の民俗」を収録。バードの旅を通して、会津の近代を浮かび上がらせる。衛生、交通、労働、女性、子供、教育、文明、国家…。近代化とは何だったか、バードの旅は、現代の私たちに問いかける。
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| 忘却の歌−近現代のいわきの歌たち− |
四倉町の友人から、「平小唄」と「平城」の音源をいただいた。ともに平の花柳界で歌われ、踊られた曲である。音源とともに送っていただいた新聞記事によれば、昭和56年に地元を代表する曲になればと「平小唄」と「平城」のレコードを作ったという。A面が「平城」、B面が「平小唄」のEPであった。「平城」は、作詞作曲不明。原田直之が歌っている。「平小唄」は、戦前と戦後のものがあり、戦後のものは昭和24年頃、作曲古関裕而、作詞野村俊夫という黄金コンビで作られた。
大正期の新民謡運動から、現在に至るまで、数多くのご当地ソングが作られてきた。しかし、歌は世に連れ添うものであり、消えていったものが多い。平小唄と平城のようにレコード化されたものは稀で、今では、歌詞しか分からないものが多い。いや、その存在さえ、分からなくなったものの方が多いだろう。さらに、付随した踊りとなると、皆目分からない。
数年前に、昭和初期に作られた鹿島村歌を老人たちに歌い、踊っていただいたことがあった。「鹿島 村歌」は、昭和初期の恐慌を村民一丸となって乗り切るために、鹿島村長が作ったもので、鹿島村の小学生が皆で踊ったという。
その土地の民謡というと、近代以前のものを想起するかもしれない。しかし、一方で、近代以降に土地の歌として作られた歌は少なくない。そして、その所在や実際がほとんど不分明であるのは、近現代の歌である。
「今昔福島の歌 万葉集から現代の歌まで」は、古代から現代までの福島の歌を集めた本である。ここから、近現代にいわきで作られた歌名を幾つか抜き出してみよう。
いわき市合併を記念した「いわき和おどり」、平の「新平小唄」、内郷町の「内郷甚句」、勿来の名所を歌い込んだ「勿来小唄」「勿来の関音頭」、三和町差塩の「差塩小唄」、磐城市が作った「磐城行進曲」、小名浜の「小名浜小唄」「港小名浜音頭」、いわき七浜を歌った「七浜大漁節」……。 これ以外にも、「四倉音頭」、「湯本小唄」、常磐交通で作った「常磐交通の歌」、内郷ヘルスセンターの「ヘルス音頭」などがある。
数年前にいわき警察署が作ったメッピー音頭も、警察署に問い合わせると音源はないという。ここ100年の歌たちは、急速に私たちの記憶から消え去りつつある。
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| カオスその2 カオスと古本屋 |
『奥会津の伝承 五十嵐七重の語り』にも、カオスが出ていた。この本は、奥会津の金山町に生まれ育った五十嵐七重の語った昔話を語りのまま採録したもの。
この中に「狐と獺(カオス)」という話があった。魚釣りのうまいカオスは、毎朝余った魚を狐に食べさせていた。あるとき、狐が毎日馳走になるのは悪いからと、カオスを自宅に招待するが、狐はあれこれと言い訳をして、カオスは馳走を食べられない。ある朝、狐は、カオスに魚釣りのやり方を教わり、川端に出かけてゆく。尻尾をたらすと魚が食いついてくるのだが、欲の深い狐は、多量の魚が食いつくまで尻尾を上げない。冬の寒い晩であったために、狐の尻尾が凍りつき狐は動けなくなってしまう。そして、翌朝、狐は猟師に撃たれてしまう。
生真面目なカオスと欲深い狐が対照的に描かれている。語りではカオスは「稼ぇぎ者」と語られている。この話は「尻尾の釣り」に分類される昔話で、一般的には猿と狐が登場することが多いようだ。七重の語りもそうだが、狐やカオスは尻尾を川に垂らして魚を釣る。そして、オチの都合上、季節は冬場となっている。
七十二候の一つに獺祭がある。季節は初春であり、カオスが春先に捕らえた魚を川岸に並べる行為に由来することばである。カオスの祭りと表記されるのは、人間が祭りのときに供物を並べる様子に見立てたためである。さらに、獺祭は、モノを書くときに多くの資料や書物を並べ散らかすという意味にも転じている。正岡子規は自家を獺祭書屋と称している。 書物を並べ散らかした様は、まさにカオスなのである。カオスが生真面目に、一つ一つ釣り上げた獲物は、やがては乱雑なカオスの貌を見せはじめる。しかし、そのカオスには、カオスたちの個性が垣間見られることだろう。
そう、それが古書店の棚。古書店の乱雑さは、古書店主がカオスゆえのカオスなのであった。
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| 『かぼちゃと防空ずきん』 |

『かぼちゃと防空ずきん』は、いわき市内を中心に昭和初期から昭和30年ころまでを対象にした手記を集めたもの。141人の手記が収められている。戦争と暮らしの手記が中心を占め、「その時代の苛烈さ」から当然のことと「あとがき」に編者は記している。 しかし、戦中だけでなく、戦後までを含めたのは、日本の社会の転換点であり、そこでの個人の「苛烈」な体験が、戦後の日本を作っていったという編者の意識からだと考える。
たとえば、編者の吉田隆治にとっての「戦争」とは、吉田が生まれ育った阿武隈高地の山村常葉町の大火事であった。昭和31年に起こったこの火事により、常葉町の大半が焼失した。当時、小学2年生であった吉田は崩れ落ちる我が家と買ってもらったばかりの自転車が火中に消えてゆくのを黙って見ているしかなかったという。
一夜明けて、吉田は、新聞記者から取材を受ける。廃墟の中であっても、我が家の場所の見当は付いていた。が、なぜか「知らない」と答えた吉田は、後日の新聞に「お家を探す子」として写真入で掲載される。焼け跡の中、自分の家を探し出す少年として、新聞は吉田を報じた。それは、吉田の短い「言葉」と現実を映し出す「写真」から産出される「事実」ではあった。
けれど、と吉田はいう。
灰の町。たくさんの家畜の焼死体。焼け死んだおばさんを取り囲む人々。ぐにゃりと曲がった十円玉。満開になった小学校の桜。一週間後、寄宿先の親類の家に現れた飼い猫のミケ。東京の勤め先から帰って来て、焼け跡で涙を流していた姉……。
「知らない」は、突如襲った「苛烈」なカタストロフィを消化しきれない少年が搾り出せた唯一のことばだったのかもしれない。しかし、新聞は、そんな少年のことばの内情からは、遠い「事実」を描いた。
ことばはいつも暴力的だし、そして、何も語らない。そんなことばへの不信感が、吉田をことばに繊細な詩人へ、ことばで現実を描く新聞記者へと駆り立てたのかもしれない。 吉田は最後に鮎川信夫の文章を引いている。
人生においては、あらゆる出来事が偶発的な贈与にすぎない。そのおかえしに書くのである。正確に、心をこめて、書く。―それがための言葉の修練である。
吉田の「戦争」の帰結の1つが、本書の編集であったのかもしれないと思う。
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