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6月15日
改めて“学校”とは何かを考える。廃校を活用した村おこしは全国各地で行われている。何を以って成功とするかはケースバイケースだろうが、うまくいっている事例は多くはない。
夜、いわきの僻村、戸渡へ向かう。前述したが、戸渡では、廃校となった旧戸渡分校を核に、戸渡リターンプロジェクトという地域おこし団体が活動している。平から車を走らせ、21時に戸渡に到着。標高500メートルの山村は肌寒い。プロジェクトのYさん宅で2時間ほど話す。(酒は呑んでないのだ。為念)
新住民であるYさんがプロジェクトを立ち上げたのが平成14年。それ以後、分校を中心に音楽イベント、キャンプの受け入れ、自然観察会などさまざまな活動を続けてきた。プロジェクトは戸渡住民全員がメンバー。住民にとって、学校は、子供の学び舎であるとともに、運動会や鎮守の祭り“道禄神祭”などの村の行事が行われる場であり、また、村の集会所の代わりしても利用されてきた。そうした中で、戸渡分校は、単なる学校以上のものとなってきた。それは、村人の精神の拠り所、ことばにしてしまうと、どこかキレイごととなってしまうのだが。
しかし、プロジェクトにとって、それは、足かせともなってきた。分校を守るという活動が、村人以外の人達がかかわり、また、その中心を担ったのが居住民のYさんであったこと。こうした事情が、プロジェクトの運営に大きな影を落とした。それは、事実である。
“学校”は公的なものであるとともに、人々の心や想いを呼び寄せる、私的な磁場であることは無視できない。そんなことを思う。
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| 伯楽寮追記 |
以前某新聞に書いたものです。
 川内村の知人の暮らしがテレビで特集された。それは、面白おかしく、田舎の貧乏生活を紹介する番組だったという。巷では貧乏が流行っているらしい。より正確に言えば、貧乏ということばが喚起する、つましい暮らしのスタイルが注目されているらしい。
そんな風潮を漠然と感じ始めたのは、私が大学に入学した90年代半ばのことだった。大学は茨城県の田舎にあって、いまだ学生向けの4畳半、1万円台のアパートや下宿があった。私が住んでいたのは、伯楽寮という気負った名の二階建てアパートだった。4畳半、月7500円で、風呂、便所は共同である。
回りは、雑木林か藪だったので、自由に土地を使うことができた。住人は、藪を切り開いて、畑を作 っていたし、犬猫はじめ、鶏も飼っていた。私が住み始めた頃は、15部屋のうち、半分も埋まっていなかった。住人構成は、農業好きの学生と、ヒッピー崩れと、怪しげな留学生だった。付近で事件が起きると、必ず警察がアパートに聞き込みに来た。当時の私にとって、貧乏とは、明治後期の貧民窟ルポのような怪しさといかがわしさが充満する場であり、伯楽寮に住んだのも、こうした好奇心によるものだった。伯楽寮の人々や、そこでの貧乏な毎日は、私の未知の世界であった。いわば、貧乏とは、私の好奇心の方向性であった。
2000年を越えるあたりから、伯楽寮に住人が増え始め、全ての部屋が埋まってしまう。さらに、驚くことに、予約まで入っているという。新住民のほとんどは、農業や環境科学を学ぶ学生だった。彼らは、実際に畑を作り、付近に借りた田んぼで米まで作っていた。田舎暮らしとささやかな生活への憧れ、それが彼らの貧乏生活であった。彼らとの酒飲みでは、私と彼らとの差異を感じることがあった。明確な主義主張を持った彼らの貧乏にとって、私のような好奇の場としての貧乏は、堕落した貧乏でしかなかった。
こうした私たちの同時代的な貧乏と、60年代の「神田川」的な「貧乏」や「学生」「下宿」とは位相の異なるものだろう。「貧乏」とは、社会人となる前に体験すべき苦労であり、後の輝かしい生活への通過点であった。しかし、最近の貧乏とは、通過点というよりも、1つのライフスタイルの選択であり、後にも変わらずサイクルしていくといった感がある。
今、伯楽寮の玄関には、「今年度でやめます」という張り紙がしてある。アパートの老朽化と大家のばあさんの高齢化で、今年度でアパートが解体されるのだ。しかし、私たちの伯楽寮は今後も私たちの生活に底流していくだろう。その選択が、「名伯楽」足りうるかは、今のところ分からないけれども。
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| 伝説? |
やっぱりルーリードってかっこいいのかなあ。ジャニスは迫力ある?ジミヘンはわかりやすい。
芸能として、パフォーマンスとして、時代を超えるものあれば、伝説としてしか残らないものもあるよね。
何の違いなのかなあ。ユーチューブ見てて思いました。
酔ってます。以上。
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