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| 休日 菜の花畑にて |
 自営業となると休日という感覚がなくなる。やらなければならないことは必ずある。そんなテンションの張りつめた状態が続くと、身体に影響が出てくる。私の場合、過労が身体に積載されると、喘息がひどくなる。だいたい数か月に一度、この発作がひどくなる。医者によれば、原因は栄養失調と過労という。1月の発作のときは、半日病院のベッドに横たわり、点滴を受けた。
4月半ばより、喘息がひどくなったので、まる一日を休日にした。数か月ぶりのことだ。つくばの知人たちと一日、菜の花畑で酒を呑んだ。昼頃より、食材と酒を買いこみ、菜の花畑に呑み会場を設置。あとは、だらだらと夜中まで、呑み続ける。何一つ仕事のことは考えない。パソコンに触らない今年初めての日だ。今日ばかりは、キーボードを叩く手は、菜の花を摘む手となり、蟹の殻を剥く手となった。呑み疲れたのか、夜は深い眠りにつくことができた。
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| 町の電気屋 須賀川にて |

須賀川を訪れたのは数年ぶりだった。しかし、少し車を走らせれば、この町の被っている地殻変動に気付くのに十分だった。車を周辺に走らせれば、郊外型の大型店舗やショッピングモールができていた。久しぶりに訪れた駅前は、テナント募集や空き地が目立ち、閑散とした印象を受ける。町のドーナツ化は、いずこも同じ風景らしい。 目的の町の電気屋は、町から少し外れた場所にあった。郊外部には、大型電気店が数店舗たっていた。そんな中、従来の町の電気屋がどのように生き延びていけるのか。 須賀川で約40年続いている町の電気屋。10年ほど前に、オール電化をメインに、地域の専門店として売り出してきた。電機節約、環境問題といった関心から、オール電化製品をメインに扱うようにしたという。しかし、それ以上に、地域で一番早くオール電化を自宅に用いた実感が、地域へオール電化を広めようとしたエンジンであったのだろう。例えば、須賀川という東北の一地域にとって、冬場の水道凍結は、悩ましい問題であった。しかし、エコキュートを取り入れれば、凍結問題は発生しない。 地域といっても、商圏としては、須賀川を覆うわけでもなく、まさに町の電気屋といった感じである。それでも、家族4人による、このささやかな電気屋は、オール電化の製品の売り上げを伸ばしている。「大型店だったら、売ったらそれでおしまい。しかし、そのアフターケアが大事」。風呂が壊れれば、代わりの商品を持って飛んでいく。1日でも、風呂に入れない日を作らない。
「電化製品を修理します」といったチラシをまくことがある。修理を通して、顧客との人間関係が生まれ、新たな商品成約へとつながってゆくという。修理とは、客が店を訪れ、商品を求めるのとは逆に、店の人が、自宅へ伺う。そして、家の電化製品の修理やメンテナンスを行う。オール電化という電化製品に、家の日常生活が大きく依っているのであれば、町の電気屋は、いわば日常生活のカウンセラーとでもいうべきなのかもしれない。
修理などの電気屋の個々の努力が、地域での信頼を獲得し、顧客を増やしてゆく。それは、従来、地域で店の成り立つ与件ではあった。地域外の大型店舗が乗り出したころから、商品の信頼を保証するものが、店あるいは人から、商品そのものへと変わったのかもしれないと思う。
「大型店舗がやってきたといっても、地域で頑張ればいいんです。」そのひたむきな努力が、町の電気屋を支え、さらには電気屋の町が維持されればと思う。
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| 石に願いを 双葉町にて |
 1月30日 古代から、石に願いを込めることは行われていたのだろうが、石仏や石塔、墓石など石を建てる習俗が一般に広まるのは近世に入ってからである。死後の安楽、村の安全、子供の無事な成長、現代では交通安全など。時代の思いに沿って、石は建てられてきた。 あいにくの雨と強風、昼前には雪へと変わった。そんな中、双葉町歴史民俗資料館に集まっていただいた10数人を前に、いわき市の十九夜講と如意輪観音像の変遷についてお話しさせていただいた。資料館の来年度の事業で、町内の石仏調査を行いたいので、事前の勉強会をしたいとのことだった。
十九夜講は、女性の安産と子供の無事な成長を願う女性の講である。2月や9、10月の19日に、如意輪観音や延命地蔵の石仏や掛け軸などを礼拝する。和讃を唱えたり、大数珠を回すなどのいくつかの形態がある。村の家を宿にして飲食をする従来の形式から、近くの湯治場へ行くなどの変化はあるものの、現在も十九夜講は続けられている。一日飲食をともにする女性の休み日として十九夜講が機能していたと考えれば、その基盤は今も変わっていないということもできる。5年前の調査時で、200を超える十九夜講が、いわき市内で活動していることが確認できた。
代表的な如意輪観音像は、宝冠を冠り、片膝を立てた坐像で、手を頬にあて、首をかしげた様子をしている。いわき地方では、近世初期あたりから立てられ始める。当時の石像は、墓域に建てられ、戒名が刻まれている。そこから、亡くなった女性、子供の供養像であったことが推測される。観音像は、近世中期より、寺院の境内やお堂に安置されるようになり、戒名にかわって、「講中」の文字が刻まれるようになる。村内の女性たちによる十九夜講の成立である。また、十九夜という文字を刻んだ文字塔が一般化してゆく。
いわき市平地区のある家では、近世後期から明治初期の話として、難産で亡くなった女性のために、家の裏に如意輪観音像を建てたと伝えられている。しかし、その後、石像は、寺に寄付され、お堂に安置されるようになった。この石像は、死者供養という家の祈りから、安産、無事な子供の成長という村の願いの込められた石像となったわけである。
数百年続いた石仏・石塔建立の習俗も、現在では、墓石建立くらいだろう。モニュメントのように、願いを込める行為自体が記念行事になり、個人が恒常的に石を拝むことはほとんどない。千羽鶴は、折る行為に意味があり、それ自体礼拝対象にならないのと同様である。
ニュースでかまびすしく、危機が叫ばれる。危機は、「世界的」で「グローバル」なのだという。それだけの強大な危機において、「地域」「ローカル」では、石を拝むという小さな希望さえ失われている。
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| 再生 |
 2月8日
午前中は久我山の買い取り。4階のマンションの一室。能、茶、書をやっていたお婆さんのもので、当然、そうした関係のものが多い。能は観世の師範を務めるほどだったという。東京の買い取りは、車を止めるにも苦労するし、マンション・アパートが多いので、搬出に苦労する。
値段は付かなかったが、茶の雑誌があった。創刊から揃っていると思ったら、一冊抜けていた。メモ書きがあった。「持っていかれた。貸した人も分かっている」当人は施設に入っているという。古本屋に蔵書を処分されたことがわかったら、どんな顔をするのだろう。
午後は、私が修行している大泉学園の古書店の買い取り。古くからの米屋で、お爺さんの趣味の蔵書。太陽、アサヒカメラ、旅などの雑誌を整理して、車に積み込む。それぞれ60年代から80年代にかけてのバックナンバーが揃っている。作業が終わると、自分の家で作ったものだからとお婆さんが干し柿を持ってきた。最後の干し柿という。この木造の米屋も、近いうちにマンションに変わってしまうのだ。
夜は、つくばで、友人たちと吞む。家賃8000円のアパートの調理室。鍋を作り、芋焼酎と知人の中国土産の紹興酒をあおる。仕事で行けなかったが、先輩の詩人が水戸の喫茶店で最後の朗読をした。身体が弱り、医者から朗読を止められたのだという。30人も狭い喫茶店に集まって盛況だったらしい。裸電球のもと、ゆっくりとした時間が流れる。
古書店にしても、民俗学にしても、消えゆくモノ、場所、人を扱う性分があるらしい。古書店では、それらを売ることで、民俗学では、それを書くことで、再生させなければならない。先日、いわきで行われた講演会で、赤坂憲雄は、民俗学はそれに「失敗」してきたのだと指摘していた。うちも、たまった在庫をどう再生するのか、目下の悩みではある。
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| 二つの風景 |
 ガロの編集者であった高野慎三の「つげ義春を旅する」(ちくま文庫)を読んだ。ひなびた温泉街や宿場町、漁村などつげのマンガの舞台となった場を著者が訪ね歩くルポルタージュであった。会津地方を多くつげが旅したことは知っていたが、実際につげの作品に出てくる風景や人、モノに実際のモデルがあったことには驚かされた。奥会津、会津西街道。著名な温泉地ではなくて、ひなびた温泉地や街道筋の商人宿をつげは好み、作品のモデルとした。作品となったスケッチもそうだが、つげが当時、撮影した写真群も今では貴重な記録となっている。 民俗学者宮本常一も観光マップには掲載されない風景を求めて、日本全国を行脚していた旅人の一人と言っていいだろう。ひなびた温泉街をつげが求め歩いた60年代末、下郷町の大内宿は、宮本らによる調査が始められ、近世宿場町の景観を残すことが「発見」される。それを契機に、行政を含めた保全運動がはじまり、80年代初頭に国により保存地区に指定された。 宮本が追い求めた風景や、つげが好んだ世間から見離されたような温泉場は、観光マップに載っているわけではない。宮本もつげも、自らの足で、地元の人、旅人から情報を収集するなど、独自に自分好みの風景を追い求めていった。先の高野の著書の中に、つげが宮本の著書を参考にしていたことが出てくる。しかし、結局は「なにかありそうだなあという勘」なのだとつげはいう。
昨年暮れの古書市で、宮本の写真集を競り落とした。昨今の“常一ブーム”で安くは買えなかったけれど、個人的に欲しかったので、無理して落とした。宮本の写真については、近年、さまざまな論者によって、その重要性が指摘されている。資料性の高さ、視線の確かさなど、今後の利用も含めて、宮本の残した豊穣な財産と言える。宮本が所長を務めていた観光文化研究所で出していた冊子「あるくみるきく」に、ある時期、宮本は「一枚の写真から」という連載を行った。それは、宮本の学生たちが、全国各地から撮影してきた一葉の写真に宮本が解説を付けるというものだった。桑名の太神楽、島根県のある浜辺のイカ干し、土佐堀川の橋…。その一葉を突破口にして引き出される宮本の知識は、恐ろしく該博だ。
つげの「勘」が辿りつかせた重苦しいひなびた風景と、宮本の残した膨大な写真群と知識群。それは、一つの風景のネガとポジのような気がしてならない。
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